勢いで書くから、まとまらずに、長文。
アレだけ人が死んで、ようやっとフクベエたった一人の死を思い出す。
誰かの死が特別なのではなく、死はそこらじゅうに転がっている。
だから、死を忘れる。
「あの芸能人て、死んだんだっけ?」「生きてるよ」
本当は死んでいる。
死は、死んだ人にはなく、
生きている人の中にある。
今生きていると思っている人が、実はこの瞬間死んでいるかもしれない。
その人の死を知ったとき、初めてその人は死ぬ。
ともだちになったのに、その友達を忘れる。
友達がいないのは、カツマタ君も、ケンジも同じ。
世界を変えたいのは、中学生のカツマタ君、ケンジ、どちらも同じ。
20世紀に才能を持った少年だったカツマタ君は、21世紀、外の世界を変え、
20世紀にクラスによくいる人気者だったケンジ少年は、21世紀、ようやく自分を変え、
内なる自分が変わらなかったカツマタ君は死に、
内なる自分が変わったケンジは生き。
同窓会で自分のやっていることをそれとなく話したカツマタ君は、
それでも他人に勘違いされ、気づかれず、
自分を気づいてほしくて、名前を呼んでほしくて、エスカレート。
ケンジは、覚えていない人物を、かつての友達に聞く。
自分で思い出そうとせずに。
友達のことは友達に聞く。
ともだちのことはともだちに聞く。
いわゆる人気者の、リーダーのケンジは、
つまるところ、
周りの人々に、友達に、ともだちに、
支えられ、生きている。
(支えられてしか、生きていけない)
誰かに頼り、生きている。
カツマタ君は、一人で生きようとして、死んでしまう。
悲しいかな、カツマタ君。
無頼漢はカッコいいが、
それでは生きられない。
誰かと誰かが交わり、生まれ、
誰かに勇気付けられ、
誰かに傷つけられ、
誰かに励まされ、
誰かに裏切られ、
誰かが作った食料を食べ、
誰かが作った服を着て、
誰かが点した火に焼かれる。
所詮、人は、誰かの中でしか生きられず。
「人間は社会的動物である」
(アリストテレス)
謝るのは必要。
ただ、謝らないように生きるのは、もっと必要。
なんですよね、大人のケンジさん。