2010年8月27日金曜日

ダーツではなく、20世紀少年所感。大いにネタばれ。

覚書。
勢いで書くから、まとまらずに、長文。

アレだけ人が死んで、ようやっとフクベエたった一人の死を思い出す。
誰かの死が特別なのではなく、死はそこらじゅうに転がっている。
だから、死を忘れる。

「あの芸能人て、死んだんだっけ?」「生きてるよ」
本当は死んでいる。

死は、死んだ人にはなく、
生きている人の中にある。

今生きていると思っている人が、実はこの瞬間死んでいるかもしれない。
その人の死を知ったとき、初めてその人は死ぬ。

ともだちになったのに、その友達を忘れる。

友達がいないのは、カツマタ君も、ケンジも同じ。
世界を変えたいのは、中学生のカツマタ君、ケンジ、どちらも同じ。

20世紀に才能を持った少年だったカツマタ君は、21世紀、外の世界を変え、
20世紀にクラスによくいる人気者だったケンジ少年は、21世紀、ようやく自分を変え、
内なる自分が変わらなかったカツマタ君は死に、
内なる自分が変わったケンジは生き。

同窓会で自分のやっていることをそれとなく話したカツマタ君は、
それでも他人に勘違いされ、気づかれず、
自分を気づいてほしくて、名前を呼んでほしくて、エスカレート。
ケンジは、覚えていない人物を、かつての友達に聞く。
自分で思い出そうとせずに。
友達のことは友達に聞く。
ともだちのことはともだちに聞く。

いわゆる人気者の、リーダーのケンジは、
つまるところ、
周りの人々に、友達に、ともだちに、
支えられ、生きている。
(支えられてしか、生きていけない)
誰かに頼り、生きている。

カツマタ君は、一人で生きようとして、死んでしまう。

悲しいかな、カツマタ君。

無頼漢はカッコいいが、
それでは生きられない。

誰かと誰かが交わり、生まれ、
誰かに勇気付けられ、
誰かに傷つけられ、
誰かに励まされ、
誰かに裏切られ、
誰かが作った食料を食べ、
誰かが作った服を着て、
誰かが点した火に焼かれる。

所詮、人は、誰かの中でしか生きられず。

「人間は社会的動物である」
(アリストテレス)

謝るのは必要。
ただ、謝らないように生きるのは、もっと必要。

なんですよね、大人のケンジさん。